日本フィルハーモニー交響楽団と新日本フィルハーモニー交響楽団の関係について、自分自身の勉強や備忘も兼ねてまとめていきたいと思います。
ざっくり言うと、旧・日本フィルが運営母体から解散を告げられ、存続のために活動を続けた現・日本フィルと、新たにオケを新設した新日本フィルに分裂したことが、この2つのオケの切っても切れない関係です。
この一連の出来事は”日フィル争議”と言われ、日本のクラシック音楽界における大きな”事件”として現在でも語られていますが、これの全てのはじまりは1969年(解散通告された年)であり、既に半世紀以上が経過しています。
私は当時を知りませんので、自分が調べた範囲で整理したことや感じたことを、このページでまとめていきたいと思います。
今後新たに得た情報などは随時更新していきたいと思っていますので、ご存知の情報がございましたら、是非こちらより情報提供頂けますと幸いです。
日フィル争議の時系列
はじめに、旧・日本フィルハーモニー交響楽団が解散し、現・日本フィルハーモニー交響楽団と新日本フィルハーモニー交響楽団が誕生するきっかけとなった“日フィル争議”について、簡単に時系列で整理しておきたいと思います。
- 1956年
- 文化放送が設立。
- フジテレビと文化放送の放送出演料(年間1億5000万)によって、旧・日本フィル運営。
- 1969年
- 文化放送とフジテレビが、旧・日本フィルの解散を通告。
- 1971年
- 5月、日本フィルハーモニー交響楽団労働組合結成。
- 12月、同労組が日本音楽界初となるストライキを実行。大幅な賃上げを要求。
- 1972年3月
- 文化放送とフジテレビは、3月末で放送契約の打ち切りを通告。
- 1972年6月
- 文化放送とフジテレビは、旧・日フィルの解散と楽団員全員の解雇を通告。
- 両社で構成される財団理事会も、解散を決議。
「オーケストラ運営には多額の資金が必要なため運営が困難だから」と表向きではリリースされたが、実際は前年に行われた楽団員によるストライキが理由だったと言われている。
- 1972年〜
- 旧・日本フィルは労働争議を起こす。(現在語られる“日フィル争議”)
※この争議に関しては次章にて※
- 1984年
- 3月16日、「フジテレビ・文化放送両社は、労働組合側に2億3000万円の解決金を支払う」、「日本フィルハーモニー交響楽団労働組合は、フジテレビ構内の書記局を明け渡す」ことなどで和解が成立。
- 4月、渡邉暁雄氏は現・日本フィルから「創立指揮者」の称号を贈られる。
- 1985年
- 現・日本フィルは、自主運営の財団法人となる。
約12年もの年月を経て、この“日フィル争議”は幕を下ろすこととなりました。
昨今のコロナ情勢の中で、全国のオーケストラが存続の危機に立たされることとなりましたが、この日フィル解散・分裂の争議に関しては、社会情勢の影響とは異なる人為的なきっかけによるものでした。
日本フィルと新日本フィルの分裂について
1972年に旧・日本フィルが起こした労働争議“日フィル争議”によって、楽団員たちは2つに分裂することとなります。
存続のために動くグループ【現・日本フィル】
約3分の2のメンバーは、日フィルの存続を求めて動き出します。
民間団体や財団に頼らない「市民と共に歩んでいく自主運営オーケストラ」を掲げ、自主的な演奏活動などで資金を得ていきます。
また、文化放送・フジテレビが行った解雇通達は不当として、東京地方裁判所へ提訴し解決を求めます。
「市民と共に歩む」スタンスについては後述しますが、現在のオーケストラの存在意義を生み出すきっかけになったとも言えます。
新しいオケを立ち上げるグループ【新日本フィル】
一方で、約3分の1のメンバーは解散に伴って労働組合を離脱します。
そして、当時の首席指揮者・小澤征爾や山本直純らとともに、新日本フィルハーモニー交響楽団を立ち上げます。
このうち小澤征爾は「労働組合の旗を降ろせば、スポンサーが見つかる」と主張し、当時の労働組合を非難します。
その結果、現・日本フィル側は財団に頼らない自主的な活動で運営する方針だったのに対し、新日本フィル側は財界の支援を受けながら活動を始めることとなります。
自分たちのオケをなんとか守りたいと、自主運営に舵を切り、カツカツな状況でも活動をし続けようとした現・日本フィル側。
対して、団の継続のため、まとまった資金を求めて新たなオケを立ち上げた新日本フィル側。
分かりやすいくらい対照的な形で分裂されたことにより、大きな事件として知られることとなりました。
現在のオーケストラに与えた影響
前章までは、私が調べた範囲の中でできるだけ分かりやすく“日フィル争議”の情報を整理してきました。
最後に本章では、私が感じたことを中心に書いていこうと思います。
若い世代が知っているか
“日フィル争議”から既に半世紀以上が経過しているため、私のような若い世代は気になって調べようとしない限り、日本フィルと新日本フィルの違いや関係性について知ることはないと思います。
「戦後○○年」のように小学校から教わることもなければ、毎年○月になれば全国放送で特番されるようなこともありませんからね。
私が気になるのは、近年及びこれから入団する特に若い世代の楽団員が、この出来事を知っているか、どう受け止めているかについてです。
半世紀以上が経過して団員もほぼ入れ替わった状態でありますが、特に近年入団している若い団員たちはそもそもこの事件を知って入団したのでしょうか。また、知った上でどう感じて入団したのでしょうか。
これから入団しようとする若い奏者たちは、この事件を知った上で入団するのか、はたまた知らず入団して退団していくことになるのでしょうか。
一方で聴衆者のあるべき目線として、私個人の意見としては、当時から多くの楽団員が入れ替わった今、“日フィル争議”を引っ張り出して「日フィルの団員は存続のために命かけて頑張った人たち」だの「新日本フィルの団員は結局財団に頼った人たち」だの言えるような状況ではないのかなと思っています。
あくまで歴史として日本フィルと新日本フィルの違いや関係性を知っておくのは良いと思いますし、継承していって良いことだと思いますが、今の同オケに対して向ける目線は異なってくるのではないでしょうか。
“地域に根ざすオーケストラ”のきっかけ
“日フィル争議”の最中、存続のために動いた現・日本フィルは、自主的な演奏活動を始めますが、その活動は都心から次第に全国へと展開されていき、多くの音楽家やファンたちから支援を受けることとなりました。
そして争議後、日本フィルはスローガンとして「市民とともに歩むオーケストラ」を掲げます。
今のオーケストラは、メイン活動とも言えるコンサートホールでの定期公演に限らず、地元の学校公演や子ども向け・障がい者向けのコンサートなど、地域に根ざした音楽活動を推進するようになりました。
ちなみに、私がオーケストラを初めて生で聴いてその魅力に惹かれたのも、小学生の時に体育館にやってきたプロオケの演奏でした。
日本フィルと新日本フィルの違いを知ろうとすると“日フィル争議”を知り、その渦中の出来事のみを知ってモヤモヤとした印象で終わりがちですが、
この争議が2つのオケに限らず、現在の全てのオーケストラに与えた一番大きな影響は、クラシック音楽ファンのためだけに存在するのではなく、地域に根ざしたオーケストラとして存在しようと意識を変えることになった点にあるのではないかと思っています。